海面に広がるこの空間は、太陽の光がたっぷりと降り注ぎます。植物プランクトンが活発に光合成を行い、地球上の酸素の半分以上を生み出しています。
人類がレジャーで楽しむ海、そして私たちが食卓で目にする魚の多くは、この浅い海域で生きています。しかし、海全体の体積から見れば、ここはほんの「薄い皮」のようなものに過ぎません。
長い長い潜行が始まります。
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水深100m。スキューバダイビングの限界をはるかに超えた世界です。このあたりまでは大陸棚(陸地から続く浅い海底)が広がっていることが多く、海底には広大な砂地や岩礁が広がっています。
水の色は鮮やかなブルーから、徐々に深く濃い青へと変化し始めます。太陽の光はまだ届いていますが、赤い波長の光はすでに水に吸収されてしまい、もしここで指を切っても、赤い血は黒や緑色に見えるはずです。
ここからが本当の「深海」の始まりです。植物が光合成を行うのに必要な光は届かなくなり、海藻は生きられません。薄暗い「黄昏(トワイライト)」の世界が広がります。
水圧は地上の20倍。ここから下は、上の層から降ってくる生物の死骸や排泄物である「マリンスノー」が重要な栄養源になります。リュウグウノツカイのような神秘的な姿をした魚たちが、静かに水中を漂っています。
この水深域では、地球上で最も規模の大きな「生物の大移動」が毎日起きています。
ハダカイワシや小さなエビなどの深海生物は、昼間はこの暗く安全な深海に身を潜めています。しかし夜になると、エサとなるプランクトンを求めて、一斉に浅い海(水深数十メートル)まで何百メートルも浮上するのです。そして夜明け前に再び深海へ帰っていきます。この上下運動は、海の炭素循環において非常に重要な役割を果たしています。
太陽の光は、ついに完全に届かなくなりました。ここから先は、永遠に続く真夜中(ミッドナイト)の世界です。水温は年間を通じて2〜4度と、冷蔵庫の中のような冷たさです。
真っ暗闇の中で、生物たちは自ら光を放つ「生物発光」を進化させました。獲物をおびき寄せる発光器を持つチョウチンアンコウや、天敵から身を隠すために腹部を光らせる(カウンターイルミネーション)深海魚など、光はここでは言葉や武器として使われます。
冷たい暗闇の海底に、突如としてオアシスが現れます。海底火山の活動によって、地殻の割れ目から300度を超える熱水が黒い煙のように噴き出している場所です。
太陽光が一切届かないこの場所では、熱水に含まれる硫化水素などの有毒な化学物質をエネルギー源にする「化学合成細菌」が存在します。チューブワーム(ハオリムシ)やシロウリガイなどは、この細菌と共生することで、太陽エネルギーに全く依存しない独自の豊かな生態系を築き上げています。
寿命を迎えた巨大なクジラが深海底に沈んでくると、そこに数十年から百年近く続く「命の宴」が始まります。これを鯨骨生物群集(げいこつせいぶつぐんしゅう)と呼びます。
最初はサメやヌタウナギが肉を喰らい、次にゴカイや甲殻類が残りの軟組織を片付けます。最後に残った巨大な骨には、骨の油を分解する特殊なバクテリアや、オゾンビ(ホネクイハナムシ)と呼ばれる奇妙な生物が住み着きます。砂漠のような深海底において、クジラの死骸は一時的ですが豊かな生態系を育む貴重なオアシスとなります。
地球の海底の半分以上は、この水深3,000m〜6,000mの「深海平原」で構成されています。見渡す限り、泥のような柔らかい堆積物が続く広大な平野です。
水圧は凄まじく、1平方センチメートルあたり約400kg。エサも極端に少ないため、生物の密度は非常に低くなります。ナマコ、ウミユリ、センジュナマコ(シーピッグ)など、ゆっくりと動き、わずかな有機物を探して海底を這う無脊椎動物が主役の静寂の世界です。
地球のプレートが沈み込む場所、それが「海溝」です。水深6,000mを超えるエリアはハダル・ゾーンと呼ばれ、ギリシャ神話の冥界の神ハデスに由来する名前が付けられています。
ここは地球上で最も過酷な環境の一つです。水圧に耐えるため、ここに住む生物(マリアナスネイルフィッシュなど)の細胞には、タンパク質が水圧で潰れるのを防ぐ特殊な化学物質(トリメチルアミンオキシド)が大量に含まれています。これ以上深い場所では、魚類は生きていくことができないと考えられています。
長かった旅の終着点。現在確認されている地球上の海で最も深い場所、マリアナ海溝の南端に位置する「チャレンジャー海淵」の底です。エベレストをひっくり返して沈めても、山頂からさらに2km以上も水が被るほどの深さです。
ここにかかる水圧は約1,000気圧。指先の上に小型トラックが乗っているような状態です。人類が月面に降り立った回数よりも、この深海の底に到達した回数の方が少ないと言われています。
暗黒と超高圧の世界。しかし、そこにも確かに命の痕跡と、未解明の謎が眠っています。海は、私たちがまだ知らないことに満ち溢れているのです。